山口組歴代全直参 生年月日順 三代目~六代目

●五代目山口組 ●最高顧問 中西一男(中西組組長) 大学卒業後大阪ミナミ最大勢力の 愚連隊南道会に所属。 南道会会長・藤村唯夫が 三代目山口組組長・田岡一雄の 舎弟となり山口組傘下に。 南道会解散に伴い、南道会八人衆の 白神一朝、中西一男、福井英夫、 加藤次男、宇田輝夫、東井儀一、 松尾三郎、福井三則らが田岡の 直参に昇格。 1968年、若頭の梶原清晴のもとで、 若頭補佐に就任。 以降、山本健一若頭のもとでも 若頭補佐を引き続き務めた。 竹中正久四代目体制下では舎弟頭。 五代目体制で最高顧問に就任。 2003年9月逝去 ●顧問 益田佳於(益田組組長) 1952年、同じ徳島県出身で従兄弟の 尾崎彰春仲介で三代目山口組組長・ 田岡一雄の若衆となり秘書を務めた。 1953年、鶴田浩二襲撃事件で逮捕。 1962年頃、横浜市に進出し 益田組を創設。関東を地盤とする 錦政会(のちの稲川会)と たびたび衝突。 美空ひばりの実弟の加藤益夫 (加藤和也の実父)を若衆にした。 1972年、稲川一家専務理事・趙春樹 と兄弟盃。山口組若頭補佐に就任。 四代目山口組では舎弟頭補佐。 竹中組長暗殺後は組長代行補佐。 五代目体制で顧問に就任。 五代目山口組舎弟頭・ 益田(啓)組組長の益田啓助は実兄。 1997年5月逝去 ●顧問 小西音松(小西一家総長) 実兄の小西豊勝が小西組を結成し、 それに伴って組員になった。 山口組で九州に最も早く侵攻した のも実兄小西豊勝の小西組であり 石井一郎もその組員だった。 1954年、小西組を継承し 三代目山口組組長・田岡一雄の 直系若衆となった。 山口組全国侵攻の先兵となり、 北陸、山陰、四国、九州に 進出して勢力を拡大した。 1960年代、山口組内でも菅谷組、 地道組、柳川組と並ぶ大きな勢力に なり、「小西一家」に改称した。 警察庁の第一次頂上作戦では、 山口組解散に強硬に反対し組の存続に尽力。 1974年、若頭補佐に就任。 四代目体制で舎弟頭補佐に就任。 五代目体制で顧問に就任。 2002年4月逝去 ●顧問 伊豆健児(伊豆組組長) 戦後博多の東中洲で愚連隊になり、 梅津会初代梅津高則の舎弟となる。 1954年頃、別府の石井一郎と 兄弟分となった。 1958年、石井が三代目山口組の直参 となると、伊豆も続く1961年に 山口組直参となった。 山口組直参となったことで、九州の 地元勢力と緊張状態に陥る。 直参昇格直後には、夜桜銀次事件で 山口組の先兵として九州地元勢力と 武装対峙し、五分の手打ちに至る。 こうして夜桜銀次事件でその勢力を 見せ付けて以降、山口組の九州・ 博多の砦として伊豆組の勢力を 急速に拡大させていった。 四代目体制下では九州で山口組最古参 として舎弟頭補佐に就任。 山一抗争の渦中、久留米の道仁会と 『山道抗争』を起こし、 激しい抗争事件の末、道仁会の 古賀磯次会長が服役を終えて 出てきた1987年に、山口組側の 代表として抗争終結の手打ち。 五代目体制で顧問に就任。 1993年3月逝去 ●六代目山口組 ●最高顧問 岸本才三(岸本組組長) 海軍航空隊を志願するも出撃前に 終戦を迎え、復員後に神戸市交通局に 入庁し1961年まで籍を置いた。 1955年頃、中山組・中山一美組長の 舎弟となって山口組の系列に入った。 1973年12月、田岡一雄から盃をもらい、 山口組直参となり組長秘書に。 竹中四代目体制で 筆頭若頭補佐兼本部長に就任。 五代目体制で渡辺組長の舎弟となり、 山口組総本部長に就任。 宅見若頭射殺事件後は暫定体制として 若頭と舎弟頭を兼任した。 六代目体制で最高顧問に就任。 2007年10月引退 ●最高顧問 工藤和義(四代目國粹会会長) 2005年、六代目山口組組長・ 司忍から舎弟盃を受け、東京都内初の 山口組直系団体が誕生した。 山口組入りと同時に最高顧問に就任。 007年2月15日、台東区の自宅で 遺体で発見された。近くに拳銃があり 自殺とみられている。 2007年2月逝去 ●最高顧問 野上哲男(二代目吉川組組長) 1977年、三代目山口組若頭補佐 だった吉川勇次の死去に伴い 二代目吉川組を継承し、 山口組直参になった。 1981年、二代目旭琉会・多和田真山と 五分の兄弟分となり、 第4次沖縄抗争を終結させた。 五代目体制で副本部長に就任。 六代目体制で舎弟頭に就任したあと 最高顧問に就任。 2010年年9月逝去 ●顧問 石田章六(章友会会長) 柳川次郎が柳川組を発足させる 以前からの幹部級で、1964年に 谷川康太郎が二代目組長に就任 すると、谷川の舎弟に直った。 1969年、柳川組解散後、 野澤組組長・野澤儀太郎、 金田組組長・金田三俊、 藤原組組長・藤原定太郎とともに 山口組直参に昇格した。 これら四人は柳川組四天王と 呼ばれていた。 四代目山口組体制で舎弟に就任。 五代目山口組体制で舎弟頭補佐に就任。 六代目山口組体制で顧問に就任。 2016年年10月逝去 ●顧問 大石誉夫(大石組組長) 実兄である大石宮次郎は 三代目山口組・田岡一雄組長の 直参だったが、宮次郎の引退に伴い 三代目山口組若中に。 四代目山口組体制で舎弟に就任。 五代目山口組体制で舎弟頭補佐に就任。 合田一家の温井完治が六代目を 襲名する際にはその後見人を務めた。 六代目山口組体制で顧問に就任。 2012年2月引退 ●顧問 西脇和美(西脇組組長) 1973年、三代目山口組の北山悟率いる 北山組舎弟頭から38歳の若さで直参に。 1979年、宅見勝とともに 本部長補佐に就任。 五代目山口組体制で舎弟頭補佐に就任。 六代目山口組体制で顧問に就任。 2008年引退 ●顧問 尾崎彰春(心腹会会長) 安原会に出入りし1953年には、 山本健一、清水光重、益田芳夫の 3人とともに鶴田浩二襲撃事件起こす。 1954年、谷崎組との抗争事件で逮捕。 第一次頂上作戦により安原会が解散。 副会長を務めていた尾崎は 解散反対派を集めて心腹会を結成し、 田岡一雄から盃を受け、直参に昇格。 尾崎組組長・尾崎勝彦は実子。 勝彦は後に二代目心腹会を継承。 四代目山口組体制で舎弟に就任。 五代目山口組体制で舎弟に就任。 六代目山口組体制で顧問に就任。 2011年9月引退 ●顧問 瀧澤 孝(芳菱会総長) 兄の瀧澤仁志が組長を務めていた 三代目山口組地道組系 八代目國領屋下垂一家(滝沢組) で渡世入り。 八代目國領屋下垂一家の若頭を務めた。 地道行雄組長が死去し地道組が解散 すると、八代目國領屋下垂一家は 三代目山口組の直参に昇格した。 四代目山口組体制が発足すると兄の 瀧澤仁志が引退し、兄の跡を継いだ 瀧澤孝が九代目國領屋下垂一家を継承し、 同時に四代目山口組の直参となった。 五代目山口組体制で若頭補佐に就任。 1991年、九代目國領屋下垂一家を 五代目山口組組長・渡辺芳則が 『芳菱会』に改称。 六代目山口組体制では舎弟に直ったが、 継続して若頭補佐を務めた。 2008年11月、顧問に就任。 2009年08月引退